プロ野球の巨人、阪神で投手として活躍した現日本ハム投手コーチの小林繁(こばやし・しげる)さんが17日、心不全のため福井市内で死去した。 鳥取県赤碕町(現琴浦町)出身。由良育英高から全大丸を経て、1971年秋に巨人からドラフト6位指名を受けて翌年オフに入団。独特のサイドスローから繰り出す鋭い変化球を武器に、76年から2年連続18勝を挙げるなど活躍し、77年には沢村賞を受賞した。しかし、78年オフに起きた「空白の1日」として知られる江川卓投手のドラフト騒動に巻き込まれ、江川氏との交換トレードで79年1月末に阪神へ移籍。その年に22勝を挙げて最多勝利、沢村賞を獲得した。83年に引退するまで通算139勝95敗17セーブだった。 引退後は野球解説者、テレビキャスターなどを務め、95年の参院選ではさわやか新党代表として比例代表区に出馬したが落選。97年から近鉄などでコーチを務め、09年に日本ハムの2軍投手コーチに就任。今季から1軍投手コーチとなった。16日には東京都内で開かれた日本ハム本社のイベントに出席していた。17日午前中に福井市内の自宅で具合が悪くなり、救急車で福井県立病院に搬送されたが、そのまま亡くなったという。 〈江川卓さんの話〉突然のことでびっくりしています。2007年にCMでお会いしたときは、お元気そうだったので、安心していたのですが。あまりにも早すぎるお別れに言葉もありません |
1978年11月、巨人が浪人中の江川卓投手と野球協約を無視して入団契約を交わし、プロ野球界を揺るがす騒動に発展した「江川事件」で、交換要員として巨人から阪神に移籍した現日本ハムの小林繁投手コーチが17日午前11時ごろ、心不全のため死去した。57歳。鳥取県出身。 小林氏は鳥取・由良育英高から全大丸を経て72年に巨人入り。76、77年にはともに18勝(8敗)を挙げて長嶋茂雄監督のリーグ連覇に貢献した。江川事件の際には当時の金子鋭コミッショナーの「強い要望」で阪神に電撃移籍し、1年目の79年には巨人戦の8連勝を含む22勝(9敗)を挙げて最多勝を獲得した。 77、79年には沢村賞に選出された。83年、13勝を挙げながら現役を引退した。通算成績は実働11年で139勝95敗、防御率3・18。引退後は、近鉄、日本ハムでコーチを務めた。 |
江川卓投手との交換トレードで阪神に移籍したことで知られる元巨人投手で現日本ハム1軍投手コーチの小林繁さんが17日、心不全のため死去した。57歳だった。 小林さんは鳥取県出身。社会人野球の全大丸を経て1971年にドラフト6位で巨人に入団。サイドスロー気味の独特なフォームから繰り出される直球と変化球を武器に頭角を現し、76、77年には2年連続で18勝を挙げるなど巨人のエースとして活躍した。 一方で「空白の一日」として知られる江川卓投手のドラフト騒動で、78年には江川投手との交換トレードで阪神に移籍して話題になった。阪神移籍1年目の79年には22勝を挙げ、自身2度目の沢村賞を獲得。その後も巨人キラーとして名をはせた。83年、31歳の若さで現役を引退。実働11年間での通算成績は139勝95敗17セーブ、防御率3・18。 引退後は野球評論家を経て、97年から2001年まで近鉄の投手コーチを歴任し、近鉄のリーグ優勝に貢献した。08年には日本ハム2軍投手コーチに就任し、今季からは1軍投手コーチに就任していた。 |
1978年11月、巨人が浪人中の江川卓投手と野球協約を無視して入団契約を交わし、プロ野球界を揺るがす騒動に発展した「江川事件」で、交換要員として巨人から阪神に移籍した現日本ハムの小林繁(こばやし・しげる)投手コーチが17日午前11時、心不全のため福井市内の病院で死去した。57歳。鳥取県出身。葬儀・告別式は20日正午から福井市松本4の8の7、千福寺りんどうホールで。喪主は妻静子(しずこ)さん。 小林氏は鳥取・由良育英高から全大丸を経て72年にドラフト6位で巨人入り。細身の体を目いっぱい使った独特の横手投げで、76、77年にはともに18勝(8敗)を挙げて長嶋茂雄監督の下、リーグ連覇に貢献した。江川事件の際には当時の金子鋭コミッショナーの「強い要望」で阪神に電撃移籍し、1年目の79年には巨人戦の8連勝を含む22勝(9敗)を挙げて最多勝を獲得した。 77、79年には沢村賞に選出された。83年、13勝を挙げながら現役を引退。通算成績は実働11年で139勝95敗、17セーブ、防御率3・18。引退後は、近鉄、日本ハムでコーチを務めた。 巨人・長嶋茂雄元監督「1976、77年のリーグ優勝に大きく貢献してくれたことを鮮明に覚えています。細身の体からは想像もつかないくらいスタミナがあり、本当に頼りがいがある投手でした。正直にいうと、阪神へトレードになったことは残念な思いでいっぱいです。現場の監督として悪いことをしてしまったという気持ちがいまだに残っています。若すぎる、早すぎる最期です」 ソフトバンク・王貞治会長「短い期間でしたが、阪神で一時代を築いた好投手でした。これから後進の指導や、多くの子どもたちに野球の素晴らしさを伝えてほしかっただけに、まだ57歳という若さで逝ったことは残念でなりません」 阪神・真弓明信監督「びっくりした。現役でも(阪神で)一緒にやって、近鉄でもコーチで一緒にやらせてもらった。野球に対して熱いし、いい理論を持っていた。気も使うし、頭の回転の速い人。決して恵まれた体ではなかったが、気で投げる投手だった」 日本ハム・梨田昌孝監督「会ってから丸1日たっていないわけだから、本当に信じられない。まだ亡くなった感じがしない。1軍で一緒に戦えるのは近鉄以来で、本人も燃えていた。若い芽をどんどん育ててほしいと思っていた」 オリックス・岡田彰布監督「小林さんとはタイガース入団が同時期だったこともあり、大変お世話になりました。野球に関してもそうですが、プライベートでもよくしてもらったことを今でも思い出しますし、大変感謝しています」 ◆江川事件 巨人が野球協約を無視して江川卓投手と入団契約を交わし、社会的事件に発展した。クラウンライター(現西武)が交渉権を持っていた江川を巨人が1978年のドラフト会議前日の11月21日、「空白の一日」を利用して入団契約を交わした。翌日、阪神が江川を1位指名。巨人は契約の優先を主張、コミッショナーは裁定で否定したが、その後「強い要望」として阪神と巨人とのトレードによる解決策を示した。阪神が江川と79年1月31日に契約、同夜に阪神、巨人両球団が江川と小林繁投手とのトレードを発表した。 |
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Author:Kio
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